home > Blog > 藤原 さと > 日本人の「個」と教育について考える(5)~キリスト教と仏教と「個」

 

藤原さとです。

「代表的日本人」から始まった仏教への旅ですが、最後に自分に引き戻して考えていきたいと思います。キリスト教と仏教は実は似ているのではないか、という話です。

私はキリスト教信者ではありませんが、子どものころから何かとキリスト教に縁があるため、今回、仏教については自分の経験と照らし合わせながら読んでいました。少しこの辺について書いておこうと思います。

 

<キリスト教と私 ~幼少時代>

私の家は、母方が曹洞宗、父方が浄土宗ですが、私が幼少時代に、私の子守りをしてくれていた人が敬虔なカトリック信者だったため、幼少期は教会の礼拝に参列し、日曜学校に行ったり、教会の本棚にあるキリストの絵本などを見て育っています。信者でないので、神父様のパンはたべれないのですが、どうしても食べたくて一度分けてもらったら、何の味もせずひどくがっかりしたことも覚えています。

その後、小学校3年生の時に東京に来ましたが、その時に引っ越した場所が大きなカトリック教会の目の前だったため、神父様にもよく遊んでもらいました。神父様とブランコに向い合せに乗ってお話ししたり、ルルドの泉というマリア様の像のあるところで崖によじ登って遊んだりしたことをは楽しい記憶です。

 

<キリスト教と私 ~中学高校時代>

その後、私は都内のプロテスタント系ミッションスクール(中高一貫私立女子校)に進学します。希望して入った学校ではなく、滑り止め中の滑り止め校でしたので、かなり不本意な気持ちで入学しました。しかもはじめの入学礼拝で、「あなたたちは(神に)選ばれてこの学校に来ました」と言われたことにひどく腹をたて「偉そうな言い方をしないでほしい」と思ったことを強烈に覚えています。

その後、6年間学校では毎朝の礼拝で「主の祈り」を唱え、聖書を読み、賛美歌を歌い、週一回の宗教の時間、定期的な礼拝、という日々を過ごしました。しかし、反抗期であったこともあり、賛美歌は口パク、宗教の時間は寝て過ごし、中間期末の考査で0点をとったこともあります。預言や奇跡の話などは気持ち悪いと思っていたし、ところどころにある非常に排他的、暴力的な表現には全く賛成できませんでした。

その後、宗教を持たない学校、男女共学がいいと思って大学を選び、すっかりキリスト教のことなど忘れて、30歳になるまでを過ごします。

 

<父が亡くなり、神に出会う>

しかし、私が30歳の時に父が急逝します。父方の家としては上述にもある通り仏教なのですが、本人の希望もあり、四谷のイグナチオ教会に眠ることになりました。

そして今でも忘れられませんが、その時の葬儀で、神父様のお祈りが済み、賛美歌が流れてきた瞬間、「父が神の祝福を受けたこと」「私も同様に神の祝福をうけていること」「私も父も神の子であること」ということを理解したのです。それまで父が亡くなってもケロっとしていた私がミサの最中に号泣し始め、周りの人もびっくりしたでしょうし、何よりも私自身がびっくりしました。それにしても、今自分で書いていても、この表現を受け入れられない人いるだろうな、と思います(笑)。

それからでしょうか。あれほど嫌で、気持ち悪いと思っていた聖書の言葉がなにかの折にふっと呼び掛けてくるようになりました。特につまらないエゴに囚われて、つらいに気持ちになったとき、孤独に感じるときなどは、「みこころのままに」と唱えるだけで、ふっと「私」のつまらないエゴの影が消え、楽になる感じを得るようになりました。

 

<佐藤初女さんに出会う>

そんな時に佐藤初女さんに出会い、そこでまた人生観が変わるというか、開けます。

佐藤初女さんは、自宅で手料理をふるまいながら悩む人に寄り添う活動を続けた人で、「日本のマザーテレサ」と呼ぶ人もいるほどに奉仕の人生を送られた方ですが、縁あって初女さんのいらっしゃる森のイスキアに泊めていただいたり、お味噌を一緒につくったりする中で、私自身、生きる目標みたいなものを初女さんにみるようになりました。

 

<佐藤初女さんにみるキリスト教と仏教の融合>

初女さんはキリスト教信者ですが、こうした「何もこだわりをもたず人のためにつくす」姿は、般若心経をはじめとする仏教の教えにもとても近いと感じます。

 

 

たとえば、初女さんが(私も)大好きなマリア・テレサの「主よ、私をお使いください」という祈りも仏教の教えに近いと思います。

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主よ、今日一日

貧しい人や病んでいる人を助けるために

私の手をお望みでしたら

今日、私のこの手をお使いください。

 

主よ、今日一日

友を欲しがる人々を訪れるために

私の足をお望みでしたら

今日、私のこの足をお貸しいたします。

 

主よ、今日一日

優しい言葉に飢えている人々と語り合うため

私の声をお望みでしたら

今日、私のこの声をお使いください。

 

主よ、今日一日

人は人であるという理由だけで

どんな人でも愛するために

私の心をお望みでしたら

今日、私のこの心をお貸しいたします。

**********

この姿に「菩薩」の姿が重なります。特に、初女さんは在家の人として毎日をすごし、晩年に向かってどんどん透明になられていったように思います。初女さんの限りない透明感と「空」が同じものかはわかりませんが、その姿にはキリスト教も仏教も超越する何かを感じます。日々の行いすべてが祈りだとおっしゃる初女さんは私の人生の目標ですが、私はまだまだ修行が必要ですね。

 

<キリスト教と仏教と個>

ということで、キリスト教も仏教も実は、人間が自由になる過程に於いて「自分なんていう矮小なものが溶けていく」感覚は実は限りなく近いのではないかと思っています。。

先に書いたキリスト教の「みこころのままに」「神のおみちびきのままに」という言葉も、自分の自我を軽くし、気持ちを軽くする言葉です。浄土教の「南無阿弥陀仏」とも重なります。

先に書いた私の中学入学時のエピソードも同じで、「あなたは神に選ばれてこの学校に来ました」というとなんだか気持ち悪いし不遜な言い方なのですが、これは実は「貴方が選んだのではない」ということです。もっと説明すると「貴方はこの学校にご縁がありましたね。」ということです。(「そう言ってくれればいいのに・・。」とぼやきたくもなります。)

つまり、なんだかんだといって「自我」に悩まされるのは私たち人間の共通した性であり、キリスト教も仏教も「人」を扱うという意味に於いて根源的には変わらないように感じるのです。

 

さて、この辺で一旦ストップしたいと思います。今回私の実家の禅宗や浄土教、また同じ香川出身の空海(弘法大師)など個人的にゆかりのある多くの考え方に触れることができなかったのですが、またどこかでまとめることができたらと思います。それにしても、仏教、経典が多すぎです・・・。

現時点での私の感想は「キリスト教も仏教も人間救済の側面からは極めて似た点を持っているが、無意識の領域、「個」のとらえ方、「世界」のとらえ方、そして「空」の感覚はやはり違う(かもしれない)」といったものです。

この先、儒教についても調べていきたいですし、河合隼男「ユング心理学と仏教」「神話と日本人の心」「母性社会日本の病理」「中空構造日本の深層」、鈴木大拙「禅と日本文化」「日本的霊性」、井筒俊彦、西田幾多郎、九鬼修造、儒教関連のものなど、今回も読んだけれど改めて読み直したいもの、新しく読みたいものなど沢山あります。少しまとまったらまた書こうと思います。これは読んだほうがいい、という本があったら教えてください。

それでは今日はこの辺で。

 

<関連ブログ>

1)仏教の「個」と教育

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2775/

2)「法華経」と「個」

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2780/

3)仏教と信念対立 仏教の上陸から鎌倉時代まで

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2787/

4)般若心経と「個」

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5)キリスト教と仏教と「個」

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2798/


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