home > Blog > 藤原 さと > 日本人の「個」と教育について考える(2)~「法華経」と「個」

 

藤原さとです。

前回は、「代表的日本人」に挙げられた日蓮について書きました。今回は、日蓮が信奉し、その拠り所とした「法華経」についてのメモです。

日蓮は前回も書いた通り、非常に個性的な僧侶ですが、「法華経」は「経典の王」とも言われ、最澄もあらゆる仏教の教えを統合するものとして「法華経」を位置づけ、比叡山を開いたという非常に重要なお経。

今回、「法華経」の教えについては、植木雅俊先生の「法華経」とちょうど100分de名著が特集を組んでいたので、それを参考にまとめておきます※。

 

<「経典の王」と言われる法華経>

日蓮の問題意識は、前回も触れたとおり、仏教界の深刻な各派における信念対立と腐敗でした。

「なぜ一人の人の生涯と思想から始まった仏教が、今や非常に多くの宗派や分派に分かれている。仏教とは一つではないのか。」「まわりを見ると一宗は、他宗すべての悪口を言い、おのおの自分こそ仏教の根本をとらえていると主張している。これは何を意味するのか。」

鎌倉時代の1200年代に日蓮が疑問に思ったこうした状況は、実は釈尊※※滅後500年経った1世紀末から3世紀初頭も同じようだったようです。

もともと釈尊の生きていた時代(原始仏教)には、権威主義的なものはなく、「だれもが平等に成仏できる」という教えでした。しかしその後、「説一切有部」にはじまり、その教えは分派化し、困難な修行を求め、覚りを得られる人の範囲を限定、釈尊を超人化したりと本来の平等の原理から離れていってしまいます。そうした排他的な上座部仏教(小乗仏教※※※)を批判し、「般若心経」「維摩経」などの大乗仏教の経典が出てきます。こうした経典は、「覚りは在家であれ女性であれ、皆が菩薩になれる」と説き、一般の人たちにも広まりました。

ただ、この大乗仏教、上座部仏教(小乗仏教)の説く悟りへの道(声聞、独覚の二乗)では、永遠の仏陀にはなれないと批判しますが、それはそれで、小乗仏教を信じる人は悟れないという意味で、大乗仏教もすべての人に菩薩の道を説く自らの考えに自己矛盾ですよね。

そんな時に、こうした小乗仏教と大乗仏教の対立をどうにか乗り越えたいと編纂されたのが、「法華経」です※※※※。

 

 

法華経では、釈尊が三車火宅の譬えを使って、上座部仏教が説く声聞、独覚という二乗の悟りへの道を決して否定せずに、菩薩を加えた三乗を悟りへ方便(最短距離の方法)として、本質的な一仏乗により、誰しもが平等に悟りを得ることが出来ると強く語りかけます。「菩薩」というのは「平等な悟り」を実現すべく、大乗仏教ではじめて取り入れられた非常に重要な概念とのことですが、こうした論法を使うことで、上座部仏教と大乗仏教の対立を乗り越えていったのですね。

 

<自己に目覚め、自己を拠り所とすることを説く法華経>

また、法華経には「三車火宅」を含め、7つのたとえ話があり、そのうちの一つ、長者窮子(ちょうじゃぐうじ)は自己に目覚め、自己を拠り所とすることを強く説く譬え話があり、「個」を考えるという観点から、興味深いのでご紹介します。

このたとえ話では、何十年も前にいなくなった子どもが、落ちぶれて家の前を通るのを見かけた父がいろいろな仕事(修行)を彼に与えながら、最後に「貴方は私の息子だ」と伝えます。自分が「息子」だということを知らない息子が「自分に気が付く」(仏陀とはサンスクリット語で目覚めるという動詞の過去分詞だそうです)という過程で、「自己に目覚める」ことの重要性を伝えています。

法華経では、他人から見た自分の姿に惑わされるのではなく、「自分を知る」こと、「自己を拠り所とすること」が大切だと説いているのですが、非常に現代的な感覚もあるように思います。

一方で、今後「般若心経」についても書いていきますが、こうした「自己(個)に目覚めよ」というメッセージは、私たちに仏教の考えとしてなじみのある「般若心境」の「空」の概念は少し違う、「個」のとらえ方があるように私は感じました。

 

次回は、日本でどのように仏教が導入されたのかをまとめ、その後「空」を説く「般若心経」についても纏めていきたいと思います。

今日はこの辺で。

 

※ちょうど「100分de名著」で特集されていました。こちらのブログはこの番組を参考にしています。

※※釈尊

本名はゴータマ・シッダールタ。紀元前5世紀に仏教を開祖。経典がインドから中国に翻訳される際に「釈迦」と当て字された。釈尊は基本的に日本で使われる呼び名。なお、「仏陀」は仏ともいい、あくまで悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指し、仏陀になる前、仏陀になった後のゴータマ・シッダールタという人物を明確にするために、釈尊と示されることもある。また、如来もすなわち仏陀のことであり、同じく釈尊を指している場合がある。ここでは、植木雅俊先生が釈尊という呼び方をされていたので、その呼び方で呼称する。

※※※小乗仏教という言葉は、大乗仏教からみた上での蔑称のため、ここでは上座部仏教と記載する。

※※※日本に於いても、日蓮=「法華経」ではなく、もともと最澄があらゆる仏教の教えを統合するものとして「法華経」を位置づけ、このお経を中心に仏教全般を学ぶための“総合大学”として開いています。浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元などもみな「比叡山大学」の卒業性となります。(「集中講義大乗仏教」佐々木閑より)

 

<関連ブログ>

1)仏教の「個」と教育

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2775/

2)「法華経」と「個」

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2780/

3)仏教と信念対立 仏教の上陸から鎌倉時代まで

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2787/

4)般若心経と「個」

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2795/

5)キリスト教と仏教と「個」

http://kotaenonai.org/blog/satolog/2798/

  
  
  
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